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August 12, 2014

カルピス劇場つっても全部のスポンサーじゃないんだけどね。

本日の更新 : 針鼠銀幕


 しばらく普通の映画(といっても劇場に行くんじゃなくて圧倒的にDVD or Blu-rayが多いんだが)を見てなかった。 その間何をしてたか? 往年の世界名作劇場(別名カルピス劇場)の高畑勲作品を鑑賞しまくってたんである!
 やっぱ『風立ちぬ』見て宮崎駿との関係があらためて気になってきた。いまは批判めいたことを口にすることもあるけど、やはり宮崎にとって高畑勲は師匠といってもいい存在だったわけで、『風立ちぬ』にしたってその原点を高畑作品に垣間見ることができるかもしれぬ・・ と、まあ高尚な思いはともかく、小学生の頃、毎週日曜の7時半にかならず見てたあのカルピス劇場を、ミーハーっぽくまた耽溺したくなったんである(『かぐや姫の物語』を見ていないにもかかわらず)。
 TSUTAYAから借り出してたのは以下。『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』。それとおまけに(というのはそーとーに失礼だが)宮崎駿演出『未来少年コナン』。
 皆1年間の放映であり、仮に一話正味20分、52週放映として1040時間≒17時間。×4作品(『コナン』も入れてね)で68時間である。これを見続けてたんでは他の映画の入る余地などないというものだ。
 でですね、結論からいうと『ハイジ』と『三千里』は見てるのがつらかった。主人公があまりにひどい目に合うのだ。小学生の頃は一週おいての鑑賞だったからそうも感じなかったのかもしれない。集中して見ると「こんなにかわいそうだったっけ?」てなもんである。ハイジなど都会暮らしのつらさに夢遊病にまでなってしまうのだ!
 だからなのかもっとも愉しめたのは『赤毛のアン』だった。これは成長物語だから(11歳~15歳を描いているのだ。こんなに長い年月を語った世界名作劇場は他にないのでは?)基本前向きであり、ユーモアがちりばめられている。なにより面白いのが羽佐間道夫氏によるナレーションで、これは原作の誰かの訳文をそのまま読んでるのではないかと思われるような調子で、鑑賞対象の小学生にはムツカシイはずだ。けどそのバカ真面目っぽいナレーションとアンのまき起こすドタバタの比較が効いていた。幼い子というものは「大人っぽい」ものにあこがれる。記憶は薄いが、ワタシもその「難解な語り」に必死になって食いついていたような気がする。
 さて、『未来少年コナン』である。相変わらず主人公(及びラナ)は初手から「完成」されている。そこに成長はない。あるのは事態の悪化に伴って(すでに完成している)コナンがじっと何かを考えこんでいる姿だ。その瞳の描かれ方は、ちょっと尋常じゃない。狂気を思わせる透きとおり具合だ。
 宮崎駿は『赤毛のアン』のスタッフだったが途中で抜けている。『カリオストロの城』演出の機会が舞い込んできたという事情があるようだが、一方で「僕はアンが嫌いです」と言い残していったという情報もある。
 どう解釈すべきなのだろうか。やはり宮崎は「成長を描く」ことがイヤなのか。いや、ここはやはり『風立ちぬ』で(ワタシとしては)ハッキリした、彼の「時間」への固執にあると考えたい。3.11が起きたときも、事態に関係なく進む「時間」はどこか「沈黙」しているように思えなかったか。ピンチをむかえるにつれ、コナンは寡黙になってゆく。けれど状況に振り廻されることなく、透きとおった存在のように彼は進んでゆく。やはり宮崎駿の描くヒーロー、ヒロインたちは「時間」の代弁者なのだ。
 てなわけで、高畑作品そのものではなく、かつての宮崎演出との比較から、『風立ちぬ』の原点を見た気がします。ワタシのパラノイアかもしれませんが、とりあえずの結論としましょう。

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