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August 18, 2013

太鼓のはなし ①

 ワタシの「図書室」は徐々にヨメによって蹂躙されつつある。

 引越し当初、この六畳間は二面の壁を本棚が占拠しているだけで、あとは読書用の椅子やクッションが転がってる、静かな整頓された空間であった。大きく拡がって床の見える、ワタシだけの心安らぐ場だ。
 そこへピンク色のフラフープが常設されたのがはじまりだった。次にカシオのキーボードが畳にベタ置きされた。急な雨の時にはベランダに干してある洗濯物の避難所と化した。不要だけれどなにか捨てられない家具がもち込まれ、酔った帰りにクレーンゲームで手に入れたわけの判らない何体ものぬいぐるみが本棚にねじ込まれた。ゴミ出しする前の雑誌の束、家庭用シュレッダー等がいつの間にか居座っている。
 飽きっぽいヨメのことだ、キーボードはいつしか触れられることがなくなり遺棄された。けれど替わってあらわれたのが、もっと柄のでかい電子ドラムである。
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 どうもヨメは、鍵盤ではなくパーカッションにそのDNAの起源をたどることのできる女であるようだ。そういえばゲームセンターではUFOキャッチャーを操作するワタシを放っておいて「太鼓の達人」に夢中な彼女を幾度となく見た記憶がある。
 この物件の購入をヨメが口にしはじめた際、ワタシはその実現はあり得ないと思っていた。楽器店で時折目にするローランドやYAMAHAのそれはとてつもなく高額だった。カシオのキーボードのようなワケにはいかない。ところがそこへMEDELIというメーカーがあらわれて2万円台での提供をはじめた。ヨメの夢はたちまち実現した。
 
 図書室が狭くなっていくことの他にもワタシの心配があった。それはドラムによる「騒音問題」で、我々が集合住居に住まい階下に部屋のある現状であれば、特にドラムペダルに関してはその振動によってのご近所さんからの苦情は必至であるように思われた。
 届いたばかりの電子ドラムのセッティングをさせられ、ホームセンターで求めておいた「児童が体操するときに敷くマット」を2枚重ねにした上に件のドラムを置く。畳に耳を押し当ててヨメの「演奏」を聴くにつれ、体操マットの効果は薄いように感じられた。しばらくは息をひそめる生活がつづく。ヨメは平気で朝の、出勤前に練習したりしてる。

 ひやひやしている暇もなく、時をおかずにヨメは「こだかり どらむ音楽教室」に、ワタシに無断で入会申し込みをした。むろん自腹で、プロの指導を受けようというのだ。このレッスンは途切れることなく、ついには教室の主催する「発表会」へ出演するまでに至った。オーディエンスの生暖かい拍手を受けてうれしそうなヨメの姿をみれば、もう「住人の苦情が出そうだからドラムは辞めろ」などとは云えない状況となっていた。
 電子ドラムの購入から数年が経つ。いまのところ文句は受けてない。が、下の部屋を訪れて「どうでしょうか。天井から河馬が足踏みしてるような振動がひびいてくるコトはありますか?」と聴いてみたいとは依然考える。安心を得たいのだ。が、ご存知のようにマンションというのは住人どうしのつきあいが適度な距離を保つことが求められる。口を利くのは引越してきた際のハンドタオルを持参してのものと、エレベーターで偶然いっしょになってしまったときの挨拶にこれは限られる。前述の「河馬問答」などのぞむべくもない。まあ迷惑を掛けていたならその鬨だ、と腹をくくることにした。

 ヨメのドラム活動を通じて「発表会」のような音楽に触れる機会がふえた。音楽への劣等感を自覚する自分としては、文芸だけの「図書室」からゆたかな外界へのさそいを受けている気配だ。やはり人生というモノは、当時の部屋のように整頓されていてもつまらない。カラフルな物のあふれる混沌がチャンスを、深みと回数においてあたえてくれる。
 階下住人へのおもんぱかり込みで「ドラムをめぐる冒険」は、はじまったばかりなのだ。と、いうわけで。

(つづく)

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August 14, 2013

72年目の開花

 転げるようにバルト9を出、折からの強い陽射しも併さって脳がぐつぐつと煮えるままに新宿の町を目的もなく歩く。わずかな理性がとりあえず落ちつけとささやいたので、中華屋に入って生ビール、餃子をオーダーした。エアコンと時間経過(とビール)のおかげでやっとシナプスの入り江からレセプターへと稼動がはじまり思考ができるようになってきたようだ。
 いまさっき二時間少々をかけ目にしてきたものはなんだったのだろうか? 卓のビールジョッキと餃子の食べかけをぼんやり見る。ふだんワタシはひとりで飲み食いするとき何か読むものがないと手持ちぶさたなのだが、いまは何ンの情報にも触れたくない。映画館をあわててとび出したのも他の観客の表情がうかがわれるのが嫌だったからだ。そう、『風立ちぬ』という奇蹟のようなアニメーションを体験することができたのだった。
 映画などストーリーのあるものは事前の情報を識らずにみる(よむ)べき、という言説によくでくわす。いわゆる「ネタバレ」を回避せよ、という姿勢だが、ワタシは構わない方で(もちろんミステリは別)、このブログに散々書いたように『風立ちぬ』に関しても見る前からその評判を、ネット中心に見まくり、読みまくった。それは、前回書いたとおり真に快感をあたえてくれるのは方法(メソッド)だからで、それは「ネタバレ」程度では体験などできっこない、つまりどんなに事前情報を得ていようと、自身が見るまではホントの鑑賞には至らないと考えているからだ。
 けれど「事後情報」、つまり自分が見てしまったあとでは、このアニメーションに関しては他人のお喋りや文章などを目にしたくない、という強い気持がいまのところある。映画館(新宿バルト9-6でした。タダ券くれた後輩、ありがとう!)を急いで出たのも、先述のとおり他の観客の表情・会話という「事後情報」に接したくなかったからだ。

 先に嫌なことを書いておこう。例の「四分間の予告映像」は、プロデューサーの完全で意図的なミス・リードだった。指摘すべき箇所はいっぱいあるけど、本稿の要所ではないのでふたつにとどめておく。
 まず庵野秀明の「台詞モンダイ」。この予告編ではロセッティの詩(知ったかぶりです。ネットでしらべさせてもらいました)を「朗読」する場面をチョイスしてる。朗読だから「棒読み」なのはあたりまえなのだ。そこをわざわざ予告編に使っている。本編において、幼少時は別の演じ手が声をあてていて、大人になってからを庵野がうけ持つのだが、その交代直後はワタシ(の粗雑な耳に)は彼が演じているのだと気づかなかった。それほど溶け込んでいた。たしかに上手くない。けれど、周囲から浮き立ってしまうほどではない。それでいて、(後に述べるかも)ひとつの意味で「異様な」青年であることをにおわせる声でもある。だから、「声優には製作側の深い意図で素人の映画監督を起用しました。下手でしょう? でもコレが味なんです」といった意味を伝えようとしているのであろう予告編は嘘なのだ。断じて下手ではない。
 しつこいがワタシはなにせ事前情報を見まくってるから『夢と狂気の王国』のセレクト映像も目にしている。二郎役に庵野秀明が決まりかけるシーンで鈴木敏夫と宮崎駿(の「二人がいっしょに」)「イケルかも」みたいなことを嬉しげに言いあう場面があるが、その効果に関してはまるでべつのことを思っている、とワタシは確信している。
 次。キャプションで縦書きに「そして、日本は戦争に突入していった。」とあり、バックの画としては母艦のようなものが列を成して湾(?)を出ていき、そこに二郎も乗っている、といった体。まるで真珠湾攻撃に(二郎「込み」で)向かうようなシーンではないか。本当は、あれは単に(といっては当時の方々に失礼だが)戦闘機の母艦離発着の「訓練」シーンではないか。何故それを「太平洋戦争のはじまり」かのごとくに予告編は描くのか(予告編に不吉なものを見たワタシは、だからこの映画を8月15日には見たくなかった。本ブログの記述時刻では、既に日をまたいでしまったが(笑・・))。さらに悪質とワタシが感じるのは、先ほどの母艦出航シーンに、二郎とその妹が船に乗っているカットを継ないでいることだ。あの兄妹が戦艦でもって戦地に向かっているとでもいうのか? そう受けとってもおかしくない編集になってしまっているではないか。ホントはここは、上京した妹を二郎が船(一銭蒸気というらしい)で送ってやるシーンだ。船の航行につれて船内に射す光がうつろってゆく(こうした場面を我々はしばし実際に目にし、思う人は「きれいだな」と思うのだがアニメーションではあまり見た記憶がない)美しい情景だ。
 『風立ちぬ』において太平洋戦争(戦争に至る状況ではなくいわゆる戦争・戦闘場面)はほぼなにも描かれない。一瞬で戦後の時制となる。
 鈴木プロデューサーは一所懸命だったのだろう。どうすればこのアニメーションを売ることができるか。製作会見も舞台挨拶もしない(宮崎の意向?)。内容はこれまでのファンタジーでもない。ストーリーでは売りにくい。では、日本人の大好きな戦争、派手な戦闘シーン(があるかのごとき幻想)を前面に打ち出そう。そして主役に庵野秀明を起用することで生じる、そのあまりの素人ぶりの可笑しさ、一方で『エヴァ』のクリエーターであるということからの深読みの喚起。それをうまく使おう etc etc・・。いろんなことを考えたわけだ。
 ワタシ自身営業マンであり、大プロデューサーに並べるのはおこがましいが、自分なりの「戦術」を練る。しかし、そういった行為のなかには許されないものもあると考える。ワタシの親会社は原発をつくっており、もはや国内に市場はないと見た今、海外に向かっての売り込みを強めていくだろう。おそらく、「絶対悪」(とワタシは確信する)たる原発を売るにあたっては「許されない営業行為」をせざるを得ない場面が出てくるのではないか。それがワタシの目にはっきりと映った際には、ワタシは何かしらの声を挙げようと考えている。
 鈴木敏夫による「四分間の予告映像」は、許されない営業行為であると断言する。

 さて、アニメーション『風立ちぬ』がこれほどまでにワタシの官能を撃ったのは、やはり方法(メソッド)のなせる技であった。なにせ方法というものは、遺伝子のように物語という舟の「なか」で運ばれているものだから、ちょっとやそっとじゃ見えにくい。見えにくいが、物語・主題を通じて我々はそれをどこか感じとっている。ゆえに豊かな快感を得る。広い世界、長い歴史、そのなかで物語・主題は語りつくされたのではないか? 同じようなストーリーに何故くり返し感動するのか? 答えはもちろん、多様な「方法」が似たようなストーリーの奥から我々の官能を直撃してくるからだ。得てして見る側はそれが「解らない」。何故自分はいま泣いているのか? いや、もっと深く、「この感情はなんだ? このような気持を自分はかつて感じたことがない。なのに、果てしなく気持がいい」。
 岡本太郎は言った。美しいと「解る」ものは美しくない。「なんだこれは?」と未知の感情をゆさぶるものが真に美しく、芸術なのだ。荒っぽい記憶で書いているがまちがってないハズ。
 『風立ちぬ』にたいていのヒトはとまどうだろう。いま見たものはなんだったのか? なんでこんなに涙があふれるのか。何故これほどまでに爽やかな気持を得ることができるのか。さらに、これまでの人生で感じたことのない、なにかワケの解らないものが自分のなかに渦巻いている。これはなんなのか? 理解できないのにつきあげるような快感がそこにある。 
 この文の冒頭近くで、ワタシは『風立ちぬ』について他人の言うことを聞きたくない、という意味のことを書いている。なのに、ヒトに読ませる文章をもうこんなに書いてしまった。矛盾だ。でもそこに『風立ちぬ』の新しさの証左がある。誰もがこのアニメーションのことを話したがっている。あたりまえだ。解らない、のだから。
 別の意味では暴力的なまでの方法の襲撃を受けたとき。ワタシはいったん外の情報を遮断して自分の内側にもぐりこむようだ。理解不能の快感にまみれつつ、その根源を「何故」「何故」「何故」「何故」と問い詰めていく。そして書きはじめる。考えつつ記述することでふと秘密の一端に触れたような気になることがある。同じようなことを皆がしてるのではないだろうか。こうして書くこと、話すこと。理解への飢えがそうさせる。揺さぶられる感情が深いほど、それは顕著になるにちがいない。轟々たる解釈の嵐が吹き荒れる。今回がそうだ。ワタシはうれしい。『風立ちぬ』を見てその官能につつまれているいま、この賛否両論の暴風がうれしい。
 
 現時点のワタシの理解。まだまだ浅いがキーワードとしては「風と夢と時間」がそのひとつになると思う。風に関しては詳述するのにワタシの能力では追いつけないので「夢と時間」に絞って書いてみたい。
 『風立ちぬ』は実に構成が巧みだ。宮崎駿作品では『もののけ姫』から『崖の上のポニョ』までは構成などメチャクチャだ。それ以前の作品は大好きで、構成も整っているもののそれは単純な一本線という感じで未知の快感に貢献するようなものではない。
 今回「構成」に関わっているのが夢で、夢と現実が交互に描写される。その境目の描かれ方は多様だ。パッと目が覚めるように瞬時に切り替わるときもあればグラデーションのようにその時点が夢なのか現実なのかわからない表現もある。
 二郎という主人公は説話中人格としての変更がない。つまり成長もないわけで、冒頭からほぼ完成した人物として設定され以後変化することなくエンディングを迎える。これが彼の異様さで庵野秀明の起用はそれをねらったものだ。けっして浮いた存在ではなく部下たちの笑いをとったりもするのだが、時をまたいで見ると変化(成長)がない、というのが彼の属性であり庵野の演技はそれに貢献している。ある時点をぶった切れば普通の青年でありその演技なのだが、変化のない人間としての異様さも併せ持つ演技。自覚的か判らないがそれが出来ている。(エヴァオタのためではない)。つまり二郎という存在は「時間」そのものを表しているといえる。われわれがけっして抗えない時間。何が(それこそ地震や戦争が)起ころうと時間というものはまっすぐ進んでいく。変化のない二郎そのものだ。
 この二、三十年、映画において流行っている時制の操作(過去と未来の行ったり来たり描写)を宮崎駿はやったことがあるだろうか? にわかには全作を追うことはできないが『風立ちぬ』においてはない。
 その、まっすぐな時間を夢が横に分断するのだ。しかも夢と夢は繋がっていてあたかも二つの次元を二郎は生きるかのようだ。さらには夢と時間が相互に作用しているようにも感じられる。で、ラストに驚くべき時間のジャンプがある。
 説話は「夢」側の時間で終わる。最後の台詞は「いい赤ワインがあるんだ」。そちら側で生きれば菜穂子との永遠の逢瀬が実現するかもしれない。

 あえて言うと宮崎駿は「純文学」を書き得たといえる。別にアニメより文学のほうが偉いという意味で云ってるわけじゃなく、アニメ界にそれに相当する言葉がないからだ。ワタシはこの文章の後半、あえて「物語」ではなく「説話」という言葉を使った。『風立ちぬ』は実は物語ではない。文芸の世界で言うと純文学は「小説」で他の推理小説などが実は「物語」だ。宮崎駿は72歳にして傑出した「方法」を編み出し物語に頼らぬ「官能の塊」を我々に提供してくれたのだ。70台で才能が芽吹いたといえる。これも、なんとも我々に希望をもらえる事実ではないか。

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August 12, 2013

うるせエーーーーーーッ!!

 映画『風立ちぬ』をめぐる発言が止まない。お盆休みで家にいるもんだからネットで動画なんか見まくっちゃって気づいたらとんでもない時間を食っている。オレの貴重な夏休みを返せ! ・・と、怒り気味なのは語られてることが地震であるとか、戦争であるとか、戦闘機であるとか、恋愛であるとか、病苦であるとか、それらを宮崎駿が「どう思って」描いているのかってのが、もちろんすべてではないが大半だからだ。
 そんなことはどうでもいいイーーッ!

 映画は、方法(メソッド)を運ぶ舟。この舟が主題(テーマ)だったり物語(ストーリー)にあたる。つまり語られるべきは方法であって、テーマや物語は言ってしまえばどうでもいい。そのどうでもいいことに馬鹿が騒いでいる。

 それにしても素晴らしい賛否両論の多さだ。これは映画に限らず小説にせよマンガにせよ芝居にせよ歓迎すべき状態で、もちろん彼らはくだらない主題とかに関して異なった見解を戦わせているわけだが、なぜ賛否両論になってしまうのか? と考えてみたらいい。テーマやストーリーは目に見えるから判りやすい。その判りやすいものに対しての見方がどうしてこれほどまでに分かれてしまうのか? それは、当の主題・物語が運んでいる「方法」が新しいからだ。

 『地獄の黙示録』の公開時の賛否両論っぷりを憶えている方はどれくらいいるだろう。ワタシのベストの一本だ。
 
 モノをつくろうという人間はすべからく新たな方法を発見すべし。それによってヒトは未知の感情に心揺さぶられ「快感」を得る。判りやすいのは音楽、ダンスだろう。そこに(歌詞がジャマになることもあるが)はテーマやストーリーは見当たらない。それでもヒトは感動する。ワタシ自身ダンスはもちろん音楽にまったくダメな人間なので忸怩たるものがある。auのCMを見ていてiPHONEからの音楽をきいている人たちをホントにうらやましく思う。

 さて『風立ちぬ』、未見だがこれはさすがに映画館に行こうと思う。「生きねば。」とか「堀越次郎と堀辰雄に敬意を込めて。」なんてキャプションがそれこそ「主題モンダイ」的に気になるが。これだけの賛否両論をまき起こしているんだ。新しい方法、人類未知の快感を見つけにゆきたい。

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風立ちぬ、いざ生きめやも

本日の更新 : サブタイトル


 先日の「王様のブランチ」を何気なく見ていて仰天した。宮崎駿のインタビューをやっているのだ。ジブリといえば日テレがカネ出して映画つくってるという先入観はぬぐえない。そこへTBSの番組が本仮屋ユイカとかいうタレント(初めてじっくり見たが見所ある芸能人なんじゃないか)が、けっこう深いトコまで聴いてる。あわててリモコンの録画ボタンを押したが10分弱くらいしか録れなかった(それを繰りかえし見てる)。
 恥ずかしながらこんな(午前中の)バラエティ番組でワタシは涙を抑えることができなかった。それは、新作『風たちぬ』の内容ではなく(未見です)、スタジオと、インタビュー風景(と過去作品の映像)のモンタージュを通じ、宮崎駿作品というものをまんなかにおいていかに皆が繋がっているかということがひしひしと伝わってきたからだ。彼の創ったシーンを見て誰しもがニコニコする、あるいは息をのむ。そしてインタビューでは宮崎がすっとぼけたことを云う。なんと幸福に満ちた時間だろうか。

 息子吾郎の『コクリコ坂から』(嫌いじゃない。評判の悪いデビュー作『ゲド戦記』もワタシは好きだ)には「徳丸理事長」という人物が出てくる。このモデルが徳間康快(故人)で、「アニメージュ」なんかを出してる徳間書店の社長だった。で、彼がスタジオジブリの初代代表であり、ジブリの名物プロデューサー鈴木敏夫は元アニメージュの編集者だ。その徳間康快が日テレと渡りをつけ製作資金を出させたのだから、まさに「恩人」であり宮崎吾郎が作品内に「豪快でいい人」として登場させるのも判る。
 しかし父宮崎駿は今回TBSの番組に出た。それも顔出し程度ではなく、それこそ日テレの番組では聴けなかったことまで語っている(『となりのトトロ』のポスターに出てくる女の子がさつきとメイの「合体版」(つまり一人)だったなんて知ってました? 以前から気づいていた本仮屋ユイカもサスガだが)。
 ワタシ自身宮崎駿のような人物がひとつの金づるに拘泥するのはオカシイと思っていた。だから、今回の「王様のブランチ」出演にはワタシにおどろく理由はなかったはずなのだ。恥ずかしい。
 同時にこれは『コクリコ坂』をつくった息子吾郎へのメッセージでもあるのではないかと思うのだ。

 さいごにひとつ。本仮屋ユイカちゃん、なかなかにいいシゴトをしたが、宮崎監督の前に出したこれまでの作品一覧のフリップにミスがあったのは気づいていただろうか。初めての監督作『ルパン三世・カリオストロの城』が抜けていたのだ。単なるスタッフの凡ミスか、あるいは彼女は判っていたのに何かの利権関係で出せなかったのか。ちょっとだけ残念なコトでございました。でも特集自体はホントに良かった。いいぞ! TBS。

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