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March 21, 2009

近くに新しいジムができるらしい。いまのトコ空くかな?

本日の更新 : 針鼠活字/針鼠銀幕


 さてさて、東日本国際親善マラソンにむけてそろそろ準備をせねばならん。なんせ1月18日の千葉マリンマラソン(5㎞)いらい一歩も走っていないのである。この大会は昨年、熱を出して無念の不参加となってしまったものであり因縁のレースである。無様な姿は見せられぬ。
 ところで今回、10㎞の部門に出ることになるが、東京マラソンで42.195㎞を「歩いた」身としてはあの直後に、「またフルを走りたい」「しかも歩かずに」などとほざいてることもあり、まあフルはムリでもせめてハーフとか、と、思わぬでもなかった。しかし我がマラソン部員の大半が「ハーフなぞ考えられぬ」「死ぬ」などと泣き言を口にするおかげで10㎞などというハンパな距離になってしまった。
 まあよい。とにかく目前にレースがないと自分のモチベーションにならないというのは骨身に沁みてわかった。10㎞とはいえ良い機会だ。さあ、これから2ヵ月半ぶりにジムへ行くゾ。

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March 02, 2009

不確かな壁

本日の更新 : 針鼠活字/針鼠銀幕


Img_3438 またDS話題で申し訳ないが・・
 見よ! ヨメと年齢がならんだのである!! ヤツめ、ふだんは「20才」を維持するのにこの日にかぎって油断しおった。そのスキを突き、ワタシとしては最高得点(?)の「21才」をたたき出してやったのだ! これで同レベル、脳年齢いっしょだネ、としつこいワタシにヨメの憤懣やるかたない様子、まるで身体の周囲から怒りの青いオーラが立ちのぼっているのが見えるようじゃ。
Img_3452 で、まあワタシの天下は一日で終わりを告げたのだが・・
White
 「おいでよどうぶつの森」にもあいかわらずハマッている。枯れかけた花の水遣りから、村中にはえてる雑草抜きなど毎日忙しい。3月になってチョウチョなども飛び交いはじめ、釣れるサカナも種類が替わってきた。愉しい愉しい。
Img_3449 これがワタシこと「へつじ」で、うしろに最近(寝室を含めて)三階建てになった家がある。へつじの現在のスタイルは、アフロヘアにちょっと派手なグラサン、着ているのは「ポップなはなのふく」だ。
 ところで「おい森」をはじめてすぐ気づいたんだが、この世界観(ってほど大仰でもないが)は村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」(あるいはその元となった短篇『街と、その不確かな壁』)部分にそっくりではないか。「おい森」の主人公(?)は基本的にこの村のなかだけですごす。周囲は海や切りたった崖、滝などに阻まれている。唯一外界との行き来ができそうな「せきしょ」があるが、簡単には外に出られない。
 ゲームを外に持ち出さないし一台しか所有していないのでDS同士の通信をつかって他の村を訪れることもない。ましてやWi-Fiを通して見知らぬ他人と交流を図るなぞ恐ろしくてできぬ。
 つまり主人公たるワタシ、へつじはゆるい軟禁状態にあるわけだ。つきあう相手は動物ばかり(ここら辺も『世界の終り・・』のテイストを髣髴させる)。その動物たちは、わりと頻繁に引っ越していき、そして新たなキャラが忽然と現れる。
 へつじには飲食の必要がない。果実をシャリシャリと食べることはできるが、たわむれでしかない。そんな夢のような、しかし限定された世界で、彼はサカナやムシを博物館に寄贈し、あるいはそれを売って得た「ベル」でローンを返す。
 ちょっと、怖いゲームかも、と感じてきました。

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March 01, 2009

『ぐるりのこと。』

 『ぐるりのこと。』をDVDで見て、動揺がおさまらずに困ってしまった。
 これだけ気分をゆさぶられているのだから、「感動した」と素直に口にできるのだけど、同時に「コレは映画なのか? 映画なのか?」と自分を問いつめつづけることにもなった。
 感情というものをえぐりだすこと、それもまったく文句のない演技で以って、と、いうことにおいてこのフィルム(DVDだけど)は完璧に近いことを成しとげていると思う。このうえない痛みを伴う鑑賞体験だ。けれどそこに「映画のチカラ」を見出さなければ納得できないメンドクサイ癖がワタシにはある。

 まず気になったのはテロップ、それと加瀬亮の出演だ。「いろいろあった90年代」を時代設定としていることは、たとえば木村多江の髪型や法廷で交わされる会話をつかって巧妙にこちらに届く仕組がちゃんと拵われており明白であって、あのテロップはまったく不要だ。まして橋口亮輔ほどの作家がテロップのダサさを自覚していないとは思えない。そこでうがった見方だが、加瀬亮の存在と絡め『それでもボクはやってない』への何らかのレスポンスを図っているのではないか、ということだ。『それでも・・』は伊丹十三の系譜に連なる「蘊蓄映画」で裁判自体がテーマであるからテロップは必然のように使用されている。同じ手法をあえて導入し、確実に有罪である役を加瀬亮に演じさせることで『ぐるりのこと。』から『それでも・・』に向けて否定的なメッセージを放っている・・
 もうひとつ、こちらが本スジとみるが。この10年にわたる物語内の時期として「7月」がやたらと出てくること。特に二ヶ所、冒頭の木村多江がリリー・フランキーにセックスをせまるシーンと、(ネタバレとなるので詳しくは書かないが)木村多江がある事をひとりで決めて病院にいるところ。双方に「7月」とクレジットされる。この恣意によるシンクロニシティにワタシは映画的な快感を得た。橋口亮輔はふたつのことがおこる時期の設定をどうしても7月にしたかった。それは文字で表現する以外に見る者に届かない。けれど「7月」だけをテロップで表示すると妙なメッセージ性を誤認される。そこで全篇をテロップで覆うことにした・・

 リリー・フランキー(現実の)は、『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』がベスト・セラーとなった後うつ病に罹っている。映画では彼の妻役である木村多江がウツとなり、リリー・フランキーは鬱とは無縁そうな役をふられている。もちろん、鑑賞者の大半はそんな現実など承知していずそれでいい。ただ一歩踏みこんで橋口亮輔がこのような配役をした意味を考えてみる。撮影期間中もリリー・フランキーはウツ状態であったはずだ。けれどそれがゆえに妻のうつ病という(映画内)現実に相対することで、自身の役柄として鬱というものを超えた存在と成ることができ、それは素人俳優である彼から、「小気味よいアンビバレンツ」といった演技を引きだしている。極端な長廻しのなかでもずっとそのような存在でいつづけることができ、その長廻しがゆえにリリー・フランキーの演技の快感を見る者は享受できる。
 この映画では実に頻繁に夫が妻を見つめる。その視線の在りようが、無限かと思えるような多様なエモーションを内在していてかえって「透徹」したものになっている。うつ病患者リリー・フランキーが木村多江のウツの演技を見つめるがゆえにあり得た視線だ。その視線をキャメラは、人の肩越しやふすまの間から、キャンバスとキャンバスのすきまから、あるいは眠っている木村多江を、と様々のショットで切りとってゆく。

 他にも木村多江の演技、特に書店のシーンでの見事さなどにも触れたいが、ズラズラと長くなってしまいそうだ。けっきょくこの一文は『ぐるりのこと。』から受けた動揺をしずめるために書いたようなものだ。書いてみれば最初の疑問、「コレは映画なのか?」には当然映画であるという結論が待っていた。映画でしかありようのない極上の快感がこの映画からは放たれている。

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