« Mへ その三 | Main | 安倍晋三の空虚な4日間 »

元旦不眠解決方法

 小谷野敦『退屈論』を読了。この文庫版の解説を書いている野崎歓のエッセイ『赤ちゃん教育』が、私が2007年に最初に読んだ本だ。このことを憶えているのは、年が明けて寝床に入ってから、まったく眠れなくなってしまい、「仕方なく」この本を読んでそのまま明け方にかけて読了してしまった、という思い出が伴っているからだ。この夜、私は妙な神経症的な妄想にとりつかれていた。部屋を真っ暗にしてベッドにもぐりこんでいると、シーンとしたなかにピシッとかパシッというような「ラップ音」のごときものが聞こえてくる。それがあまりに頻繁で、時にびっくりするくらい大きな音だったりもし、何なのだろうかと考えこんでしまった。この部屋には2006年の春に引越してきた。それまで1Fだったのが7Fとなり、私は持ち込んだ大量の書物を疑った。つまり、べつの和室丸々を占拠して置かれた本棚と、このベッド下いっぱいにダンボール箱に詰め込まれたままの本の「重み」である。私の家は角部屋で、この寝室と和室の壁の向こうには何もない。そこでこの床と壁が、書物の荷重に耐え切れなくなって、いま、ゆがみはじめているのではないか。それゆえにラップ音をたてているのではないか。そう思うと、自分が7Fという「中空」に大量の重い本とともに居るのだという事実に、たまらない不安を感じた。今にもこの横の壁が外にむかって崩壊し、ベッドや本もろとも7Fの高みから真下へ落下していく・・、そんな映像がありありと浮かんだ。私は寝床から飛び起きると明かりをつけ、まず部屋の壁紙の様子を仔細に観察した。部屋がゆがんでいれば壁紙にもなにか跡を残すのではないか。一見異常はないように見えたが、ついに一筋、「ねじれ」のようなものがあることを発見してしまった。次にパソコンの電源をつけ、ネットに繋いだ。検索ページに「マンション崩壊」「ラップ音」「本」「ピシッ」「パシッ」等のキーワードを入力し、情報を得ようとした。しかし意義のあるものはなさそうであった。あてどないネット・サーフィンを繰り返すうちに、私は自分がいったい何をやってるのか判らなくなってしまった。もちろん「壁崩壊」の恐怖が去ったわけではないが、この元旦の未明によそへ移って寝るあてなどあるわけもないし、いますぐ本を大量処分することなどできようもない。私はパソコンをおとし、再びベッドに入った。いわば状況を「受け入れた」わけだが、壁崩壊のイメージは去らず、どうしても眠りに入っていけない。そこで購入しておいた『赤ちゃん教育』を読みはじめた次第なのだ。
 ところで『退屈論』最終章は何故神経症を採りあげているのだろうか。主に森田療法のメソッドをヒントにしつつ、「退屈」解決への方法提示へと、本書全体の結論に結びつけていく重要な箇所だ。それが、神経症と退屈の関係がいまひとつ飲み込めない。繰り返し読んでみると、おぼろげながら、こんなことを言ってるのかな、という像が浮かんでくる。つまり神経症の快癒には、状況を「受け入れる」ということがそれに繋がる、というのが森田療法の大きな解釈だが、それは決して「あるがまま」の状況ではなく、「はからい」を繰り返した上で「尽きた」状況を指すのだ。退屈から逃れるには、まず、「退屈を逃れるために上位の環境を求める、その環境にも飽き、さらに上位を求める」という退屈の連鎖を断ち切る「はからい」をすべきだ。それは低速度社会をつくることにある。逆説めくがそれは「常に退屈な社会」をつくることだ。そのことによって人は退屈に慣れて「受け入れ」るであろう。--私はこう解釈した。著者がしきりに森田療法における「あるがまま」の解釈を否定し、「はからい」の重要性を叫ぶのと、「低速度社会」をつくるくだりへの持っていき方が混乱しているように思え、多少無理があるようだが、私の個人的理解とする。
 これを2007年元旦未明の私の行動にあてはめてみれば。まず「マンション崩壊」という不安にとりつかれ、壁紙を点検したりネットをさまよう「はからい」につとめた挙句それが「尽き」、ついには状況を受け入れた、ということになるのだろうか。私は「マンション崩壊」を不安に思うこと自体に退屈し、ついにはその退屈さえも受け入れたのだ。
 本書の解説を野崎歓が書いたのは、エピローグで採りあげられたミシェル・ウェルベックの『素粒子』を野崎が邦訳したことによるつながりと思われる。小谷野はここで、ウェルベックの書くテーマを、「セックスというものがなくなれば、ヒトはより高貴な生き物になる」と規定し、それを間違っている、とする。なぜなら性交はヒトにとって最高の「退屈しのぎ」のひとつであり、それを無くそうという方向にいくはずがない、というのが論旨だが、で、あれば彼の重視する「はからい」はどうなるのか。セックスを単純な快楽の道具としない、そういったつとめを果たすことが「はからい」ではないのか。その結果「セックス」がなくなり、その退屈への耐性を備えていく。それが小谷野の求める理想ではないのか。こういったところにも本書の著者の混乱が認められる。
 ところで性交がなくなり、ヒトの繁殖がクローンに頼ることになるとどうなるのだろう。「子」とういう概念がなくなるだろう。野崎歓は『赤ちゃん教育』で、比較的遅い年齢になって生まれてきた子への、赤裸々な愛情を綴っている。まさに、「子育て」こそ最高の退屈しのぎのひとつであると、そこにうかがうことができる。『素粒子』の訳者がそう主張することは、小谷野の解釈からすれば皮肉なことだが、小谷野の論旨があやふやなのを見れば、ましてや「もてない男」の彼からは何も言えまい。また、子供のいない(いさせない?)自分も、何も言う資格はない。子がいれば、元旦の不眠症はなくなるのだろうか? 判らない。
 ちなみにラップ音の正体だが、冬場、夜間の冷え込みが増すためその温度差にマンションを構成している素材に伸縮が生じ、それがゆえに発生する、と、いまは判っている。[2007/12]

|

« Mへ その三 | Main | 安倍晋三の空虚な4日間 »