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Mへ その三

 JR大森駅のホーム中央あたりに、「日本考古学発祥の地」と刻まれた碑がある。ぼくが通っている会社のある大森は、モースが日本で初めて貝塚を発見した場所だ。碑には人の頭ほどの高さに、土器を模したブロンズが据えられている。先夜、酒に酔ったぼくはホームで大声をあげ、周囲の人の目をたっぷりと集めてからこの碑によじのぼり、土器の中へ嘔吐した。
 翌朝さっそく職場の皆に昨夜のことをからかわれたが、わりと平然としていられるのは記憶がないからだ。自分の問題として切実に迫ってこない。土器の一件も人から聞いたわけだがそれでもいっこうに思い出せず、しかしその人が嘘をつくことも考えられないので、オレはそーゆーことをしたんだなと物語を読むように納得している次第なのだ。
 記憶のブラックアウト。普通「忘れる」というのは頭の中の引出しが閉まっている状態と例えられる。その中に記憶そのものはある。何かのきっかけ、キーワードを与えられれば引出しは開き、「思い出す」ことができるわけだ。しかしぼくの場合いっしょに飲んだ人にいくら前夜の一部始終を聞かされてもまったく「思い出せ」ない。引出しの中身そのものがかき消えてしまったとしか思えない。
 酒席にカメラを持込むようになったのは、あるいはそうやって失われていく記憶を何らかの形で残しておきたいという無意識の欲求ゆえかもしれない。
 人格とは記憶の集合体。その「人」をつくっているのは思い出だ。しからばなくした酒席の記憶は、ぼくの人格形成に何ら寄与していないということになるのか。確かに過ごしたあの二時間のぼくは、ぼくであってぼくではない。
 しかし写真は残る。自分が関わった、でもまったくあずかり知らない風景が、そこにごろんと横たわっている。客観的に、物語を読むようにぼくは写真をながめる。静止した絵を経由してつくられる実体験の記憶。ゆがんだ思い出。
 映画『ブレード・ランナー』のレプリカントは自分の記憶を疑っている。偽造された幼時の写真を護符のように大切に持ち歩く。唯一のアイデンティティの証左。その写真をくりかえしながめ、記憶すれば、疑わしい自分の思い出もホンモノとなり、より鮮明に刻印されるとでもいうように。
 小学生の頃地元にある貝塚に遊びにいった。急な砂の斜面を滑ったりむやみに飛び降りたりした。そこにあったおびただしい数の貝の堆積は、ただ汚く感じるだけで幼いぼくにはどうでもいいものだった。今あの風景は、ぼくには無数の写真を捨てた跡のように思える。ぼくの記憶喪失は、ぼくの個人史に起こる小事件に過ぎないけれど、例えば人類の、というより生物の進化の時間において、同じようなことは起きていないのだろうか。原始からの記憶を持つといわれるDNAにも、所々酔払ってなくしてしまった記憶もあるのじゃないだろうか。
 ヒトはいつも記憶をなくすことを恐れている。なくした記憶はよみがえらすことにやっきとなる。考古学というのは、失われた思い出を取戻す作業だ。ぼくが酒席の写真に見入るように、レプリカントが偽の写真を脳に刻むように、人は貝の表を仔細に検分する。[1995/03]

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