« 『朝鮮童謡選』 金素雲 | Main

『イルミナティⅠ ~ ピラミッドからのぞく目』 ロバート・シェイ&ロバート・A・ウィルスン 小川隆訳

読書を愉しむのにイデオロギーが必要か? [2007/09/30]

 下巻、169頁。

  「おっそろしいほど長い本なのよ(中略)。この作者たちはま
  るっきりの能なしよ――文体も、構成もなってないわ。出だし
  は推理小説風なのに、SFになったかと思うと、怪奇ものにな
  るし、気味悪いほど退屈な何十というテーマをめぐるめちゃく
  ちゃに細かな情報がぎっしり詰まってるの。それに時間の流れ
  もフォークナーやジョイス気取りのすごくわざとらしいやり方
  でてんでんばらばら。さらにひどいのは、猛烈に卑猥なセック
  ス・シーンが売ることだけを考えてぶちこまれていて、作者た
  ちは――聞いたこともない人たちなんだけど――最高に悪趣味
  を発揮して、実在の政治上の人物をこの出鱈目に引きずりこん
  で、実在する陰謀を暴いているかのように見せかけてる。」

 本書にコメントしようとする内容はほぼこの文章に集約されてしまっている。作者(たち)が自己言及しているわけで、つまりは『イルミナティ』は極く自覚的にそのスタイル(方法)が選択され、延々と(なにせこのあと2部3部とあるのだ)維持・継続されている(と思われる――未読なので)ことになる。
 こんなことは、伊達や酔狂では成しとげられぬ所業ではなかろうか。さらに信じられないのは、この本が売れたということなのだ。「訳者あとがき」によると(3部作としてだが)その数100万部。売れただけではなくその後のカルチャーにさまざまの影響を与えたともある。1985年には再販され、30刷を重ねた。

 上の引用から象徴的な一語を挙げるならば、「出鱈目」である。そう『イルミナティ』はデタラメだ。作者たちが膨大な知識を有していることは読んでいれば判る。けれどその知識の群が、本書において「もてあそばれている」。それがもっとも悪質にあらわれているのが、「時間の流れもフォークナーやジョイス気取りのすごくわざとらしいやり方でてんでんばらばら」ということになる。
 個人的なことをいえば途中から「物語」を追うのをあきらめた。それはこの「時間の流れ」モンダイが最大の原因で、1行空けるだとか、解説を加える、ということなしに過去と現在を行ったり来たり。さらには登場人物AとBの「近過去」と「もっと過去」がアト・ランダム(と思われる)にミックスされるといったような、ひじょうに重層的な時間操作をやってるのだ。さらにさらに、登場人物は「AとB」だけでは無論なく、やたらとその数が多い。上巻の「登場人物」(カバーの折り返しではなくページの最初のほう)に紹介されている人数(イルカも含まれるが)をためしに数えてみると、「50」である。こいつらがいり乱れてさっき言った「時間の行ったり来たり」をやってみせるもんだから、忘れてるエピソード(伏線?)もあるし、人物そのものも思い出せないキャラがいるし、圧巻はこうした「時間と人物のミックス」を集中的にやってる箇所がいくつかあることで、普通の小説でいえば「1段」くらいの単位なのに、目の前で展開されているスジがまったく理解できない。
 と、いうわけで、物語を追うのをやめ、次から次ととび込んでくる「文字」をただ「眺め」ていくことにした。そうしたらすこし楽になり、読了にいたることができた。おそらくこの態度は正しくて、本書における作者の自己言及の内容からいっても、また、シリーズの長さからも、「コトバの洪水」を浴びせることで読む者に快感を与えようとしたのではないかという推測が選択肢のひとつとして成り立つと思われるのだ。
 それにしても不可思議なのはこの本のすさまじい売れ方だ。たしかに「コトバの洪水」を浴びることで「楽に」なったとは記したが、読書としての「快感」には程遠かった。あるいは英語圏、もしくは米州においては『イルミナティ』のコトバの洪水に、より反応できる素地があるのかもしれない。それは宗教的なものかもしれないし、フリーメイソンをはじめとする「秘密結社」的なものの知識の伝播があるのかもしれない。

|

« 『朝鮮童謡選』 金素雲 | Main