« 『自分と自分以外 戦後60年と今』 片岡義男 | Main | 『てるてる坊主の照子さん』 なかにし礼 »

『アメリカよ!あめりかよ!』 落合信彦

「すらすら」vs「ひっかかり」 [2004/09/30]


 まさかおのれの生涯に落合信彦を読む機会がおとずれようとは夢にも思わなかったが、読んでみたら面白かった。あっというまに読んでしまい、いまとなっては読み終わったのがずいぶん昔のことに思える。内容もよくおぼえていない。いま頁をぱらぱらとめくってみると、ところどころ頁の端を折っている箇所がある(ドッグイヤー)。その頁の内容をすみずみまで読みかえしてみても(よくあることだが)、どこの文句を気にしてその頁の端を折ったのかまったく判らない。この感想文の「きっかけ」にでもなればと思ってドッグイヤーの頁をすべて読みかえしたが、ひとつたりとも端を折った理由を思いだせる頁はなかった。したがっていま現在においては何も感想が浮かばず、困惑している状況である。
 すこし思ったのは、梶原一騎の『男の星座』に似ているな、ということと、永井荷風にも「アメリカ」をひらがな表記した『あめりか物語』というのがあったな、ということであった。しかしこの論を推しすすめるのは、前回の『てるてる坊主の照子さん』を『細雪』と比較した手法と似てきてしまい、筆者が、比較することでしかその作を語れない、と思われるのではないかと、躊躇わせるものがある。
 なぜ「面白かった」のに何も「おぼえていない」し「感想が浮かばない」のか? これは「無感動」という状態である。そう、私は本作にまったく感動しなかった。たしかに面白かったし実にすらすらと読めた。この「すらすら」と読めた、にすべての謎を解く鍵が秘められている気がする。なぜなら、私がよく「おぼえてい」て「感想が浮かびまくる」作品は決して「すらすら」と読めたためしはないからだ。ときにその一語に、一文の言い廻しに、あるいは頁を戻ってまで「ひっかかり」ながら読んでいく。そんな作品に、私は感動することが多い。「ひっかかり」とは作者が文章や構成にひそませた仕掛であり、読む者をひとつ深い思索にいざなう罠である。そうした「ひっかかり」が全篇に上手く配された文章であればこそ、我々は文字を読むことでいまいる次元とはべつの場所に移され、感動を得ることができる。「すらすら」読ませる文章を書くことはたしかにひとつのテクニックであろう。しかしそれはやはりテクニックにすぎない。いちど身につければいくらでもすらすら書ける。「すらすら」読める文章は、書いているほうも「すらすら」書いているのである。「ひっかかり」など意識されようはずもない。この文庫の折り返しを見れば判る。「すらすら」書いたればこそのこの著作数だろう。
 ふと思いたってまたドッグイヤーを読みかえすと、すべてが喧嘩のからむシーンだった。読んでいる途中は『男の星座』との比較論で行こうと考えていたようだ。

|

« 『自分と自分以外 戦後60年と今』 片岡義男 | Main | 『てるてる坊主の照子さん』 なかにし礼 »